現在の横浜市金沢区に属する金沢・六浦の地に存在した金沢八景(洲崎晴嵐(すざきせいらん)・瀬戸秋月(せとしゅうげつ)・小泉夜雨(こいずみやう)・乙艫帰帆(おっともきはん)・称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)・平潟落雁(ひらかたらくがん)・野島夕照(のじまゆうしょう)・内川暮雪(うちかわぼせつ))と、琵琶湖の河口部周辺に位置する近江八景(おうみはっけい)(唐崎夜雨(からさきやう)・石山秋月(いしやましゅうげつ)・瀬田夕照(せたゆうしょう)・比良暮雪(ひらぼせつ)・矢橋帰帆(やばせきはん)・粟津晴嵐(あわつせいらん)・堅田落雁(かただらくがん)・三井晩鐘(みいばんしょう))は、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)(瀟湘夜雨(しょうしょうやう)・洞庭秋月(どうていしゅうげつ)・漁村夕照(ぎょそんゆうしょう)・江天暮雪(こうてんぼせつ)・遠浦帰帆(えんぽきはん)・山市晴嵐(さんしせいらん)・平沙落雁(へいさらくがん)・煙寺晩鐘(えんじばんしょう))に範(はん)をとった景勝地として知られていました。こうした晴嵐・秋月・夜雨・帰帆・晩鐘・落雁・夕照・暮雪といった多様な景観を複合的に構成している「八景」の景観は、単なる八つの風景の集合体ではなく、和歌や漢詩といった言葉=音声を媒介(ばいかい)として伝えられるその土地の歴史性を基層にふくみ込みながら、さまざまな自然現象を総合的に存在させる箱庭的(はこにわてき)宇宙としての一体性をもつものでした。同時にまた、そうした景観を多くの人々が観賞できるような大都市の周辺に存在することが、「八景」のような名所が存立するための不可欠な条件でもあります。その意味では、武家政治の発祥(はっしょう)の地である鎌倉に隣接すると共に江戸時代の政治の中心地に近接する金沢八景と、古代以来の大都市である京都周辺に位置する近江八景は、それぞれ東日本と西日本を代表する「八景」型の景観ということができます。
今回紹介する「金沢・近江八景図屏風」は、向かって右側の右隻(うせき)に金沢八景、左側に近江八景が配される六曲一双の屏風です。残念ながら落款(らっかん)などはなく作者は不明ですが、東西を代表する「八景」型の景観を一望のもとに臨むものです、右隻・左隻共に、中央部にみられる金沢の入り海や琵琶湖といった水面の右手には瀬戸橋(せとばし)と瀬田の唐橋(からはし)が配置され、また左端の上部に富士山や比叡山(ひえいざん)という雪で覆(おお)われた高山が置かれるなど、両者をできるかぎり同一の構図で描こうとする意図が感じられ、当初から一対のものとして作成されたことがうかがえます。
右隻の金沢八景の構図をもう少し細かくみると、第一扇・第二扇の中央部に瀬戸神社・瀬戸橋・弁天島、第三扇・第四扇の下部に能見堂(のうけんどう)、その上部に入り海を隔てて野島、第五扇・第六扇の下部に称名寺(しょうみょうじ)が、それぞれ配置されています。手前の能見堂はやや小高く表現されており、当時の代表的な金沢八景の景観方法であった能見堂から金沢八景を一望する構図で描かれていることがわかります。