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Q : 縄文時代の人たちの寿命が短かったのはどうしてですか?

 縄文時代の人たちの寿命が今と較べると短かったと学校の先生から教えてもらいましたが、理由までは教えてもらえませんでした。どうして短かったのですか? (栄区 あっくんさん 12歳)からのご質問

A ご質問ありがとうございます。あっくんさんは年齢から察するとまだ小学生のようですが、縄文時代のことについて興味があるようですから、歴史に関することが大変好きなのでしょうね。

 簡単に言うと、当時の人たちの寿命が短かった最大の要因は医学や科学が発達してなかったためです。古代ギリシャにヒポクラテスという人がいました。この人はそれまでの原始的な医学を経験科学として発展させたことで有名な人で“医学の父”として知られています。言い換えれば、現代医学の基礎を作り上げたといえる人です。この人が医学を学んでいた時代は紀元前460年〜370年前後のことでした。その当時日本はまだ弥生時代のはじめの頃で、現代では医者にかからないでも薬を飲めば治せるような病気で死んでしまう場合もあったようです。

 また、病気ではありませんが、出産も死因のトップ3に入っていたようです。医学が発達し医療環境が整っている現在の日本でも、産科婦人科の医師不足から過疎(かそ)地域で出産時に母体や新生児の生死に関わるような状況になったというニュースがあるようですから、当時の人たちはそれは大変であったに違いありません。

 ちょっと前に流行った大沢たかお出演のドラマでは、江戸時代の医師が十分な薬がなく、治療に四苦八苦しているのを、現代からタイムトリップした医者が機転を利かせて助けるといった表現がされていました。当時最先端の考え方である西洋医学を学んでいる医者であっても、現在では完治できる病気を治せないような時代であったのです。ですから、医学というものが分らない縄文時代ではなおさらのことでしょう。

 寿命を調べるにためには、亡くなった人の骨を調べるのが重要となります。
 当センターの職員(調査員)は歴史学(人文系)の中の考古学という分野を専門的に学んでいます。この分野を学んだことで発掘調査や出土品(土器などの文化遺物)のことには詳しく知識をもっています。しかし、昔の人たちの骨や歯などから当時の生活環境などを研究する部門は、生物学など自然系の学問のひとつである自然人類学(または形質人類学)と呼ばれる学問となり、専門分野が異なります。一般の人が土器をみても違いが分からないように、私たちが骨をみても年齢や性別などの詳細はよく分かりません。ですから、発掘調査で人骨が見つかった場合には、専門家に骨の部位(ぶい=どこの場所の骨か)を同定(どうてい=同じであることを見きわめること)してもらうことになります。

 当センターが行なった発掘調査例では、金沢区の六浦大道(むつらだいどう)やぐら群のやぐらから見つかった多数の人骨同定[国立科学博物館]や磯子区の杉田東漸寺(すぎたとうぜんじ)貝塚の中・近世の墓壙(ぼこう)から出土した人骨同定[聖マリアンナ医科大学]などがあります。また、縄文時代では都筑区の北川貝塚[聖マリアンナ医科大学]などがあります。

 形質人類学の研究者が、発掘調査による出土人骨を用いて縄文時代の人たちの平均寿命を算出してみたところ、およそ15歳という数値が導きだされました。ただし、発掘調査では乳幼児の骨があまり出土していないことから、この世代の生存率をどう捉(とら)えるかによってこの数値よりも小さくなる可能性も考えられるようです。また、最近のデータでは60歳位の人骨も確認されており、以前に行なった人骨の同定データに見誤りがあり、実際より若い年齢にしてしまった可能もあり、逆にもう少し大きくなるのではと考えている人もいるようです。

 貝塚や古墳などから見つかる人骨は遺存状態が良いものだけです。これは全体のごく一部にすぎません。また、1体分すべての人骨が見つかることは稀(まれ)で、遺存状態の良いものであっても、指の骨などの細く小さな骨や薄い骨などは発掘調査時には残っていないのが現状です。

   
 細かい指先の骨などや薄い頭蓋骨(とうがいこつ=頭の骨)は見つかりませんでした  (左)足をまげた状態で埋葬された人[屈葬(くっそう)]と(右)まっすぐな姿勢で埋葬された人[伸展葬(しんてんそう)]

 ともに称名寺貝塚[D貝塚北](金沢区)出土人骨

 

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