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栄区横穴墓探訪記(1)

 


これまで埋蔵文化財センターは横浜市北部域にあったため*、栄区に存在している遺跡を見る機会があまりありませんでした。栄区に移転してきたからには栄区の遺跡の現状を把握しておく必要があるとは思いながら、日々の業務に追われ忘れていました。そんな中、栄地域史研究会の柳下(やぎした)さんから、ご自宅付近(鍛冶ヶ谷二丁目)に現存する宮ノ前横穴墓群の現状を確認してほしいとの連絡がありました。
栄区地域史研究会はその名称からも分るように、栄区を中心とした地域の歴史などを研究している郷土史団体です。柳下さんは以前から宮ノ前横穴墓を主とした栄区内の横穴墓を研究している方です。実は宮ノ前横穴墓群は柳下さんのご自宅のすぐそばにあり、若い頃に中に入ったりして思い出深い場所なのだそうです。ただ、ご自身は発掘調査の経験などないことから、現在残されている素晴らしい横穴墓が失われてしまう前に埋蔵文化財の専門家である私たちにぜひ見て欲しいということでした。また、柳下さんは確認する時には現地案内していただけるとのことでした。それぞれの日程を調整した結果、平成22年2月24日に現地に訪れることとなりました。当日は、栄地域史研究会の会長の北條(ほうじょう)さんも同行してくださることになり、埋文センターからは鈴木所長と鹿島職員の2名体制の総勢4名のパーティーでの横穴墓探索?となりました。また、宮ノ前横穴墓群だけではなく鍛冶ヶ谷周辺の横穴墓群も確認することにしました。この日は、メンバーの普段の行いが良いせいか2月とは思えないほどの陽気で、横穴墓探訪にはもってこいの条件でした。
この宮ノ前横穴墓群は昭和3334年に鵠沼(くげぬま)女子校の地歴研究部によって調査がなされています。ただし、調査の主体が高校生ですから、夏休みなどの休日期間に行なったうえ、参加者の大半が女子高校生であったためにすべての横穴墓の発掘調査を行なうことはできず、大半の横穴墓は玄室の中の調査に留まっていたようです。ですから、今後開発などで失われてしまう前に確認しておくことは重要なことでした。

 

まず、宮ノ前横穴墓群に向かった一行を待っていたのは、下草はあまりないものの枯れ落ちた竹の葉で滑り易くなっている急斜面でした。わずかに土が露出しているけもの道のような場所を、周囲に生えている樹木の幹に手をかけながら上がること数分、麓から約10mほどの比高差のところに犬走り状の平場が左右に分かれている場所にたどり着きました。柳下さんのお話では、この犬走り状の平場の前に横穴墓が展開しているとのことでした。
まずは、西側に延びる方から確認することにしました。この分岐点より西側に展開するのはA群と呼ばれている一群です。この群の最も西側に位置する横穴墓から東に向かって順に確認しました。今回の探訪では、横穴墓が開口しているかどうか、玄室の内部の天井の崩落や全体の残存状態を確認することを目的としていたので、こうしたことをチェックしながら、順番に移動してきました。
西側から3番目の横穴墓まで進んだ時に問題が発生しました。玄室にあるはずの造付(つくりつ)けの棺座(かんざ)と呼ばれる施設が見当たりません。なぜ?どうして? すると先に進んでいた柳下さんが「造付けの棺座は隣の横穴墓ですよ」というではないですか。3番目の横穴墓のチェックを後回しにして隣の(西側から4番目の)横穴墓に向かうとなんと立派な造付けの棺座があるではないですか。
でも調査時の遺構分布図を見ながら進んできたはずです。分布図では最も西側にある横穴墓はA−11号墓で、3番目のA−9号墓が造付け棺座のある横穴墓のはずです。いったいどうしてしまったのでしょうか? どうやら、一番西側に開口していた横穴墓は遺構分布図に記載されていない横穴墓であったようです。ただ、柳下さんの記憶によるとこの横穴墓も調査する以前から開いていたということでした。それでは調査時に漏らしてしまったのでしょうか? 現地確認の初っぱなから疑問点がでてしまいましたが、ここで悩んでいても始まりません。今回の探索はまだまだ残っています。造付け棺座のある横穴墓の西側に3基の横穴墓があることは事実なので、この疑問の解決は次回に見送って横穴墓のチェックの続きに取りかかりました。 この疑問は埋蔵文化財センターに帰ってきてから、すんなりと解決しました。この横穴墓は、実はE−1号墓という横穴墓だったんです。A群の西側にはもともとE群と呼ばれる2基の横穴墓からなる一群があることは報告書により知っていました。ただ、A群から10mくらい離れた場

竹やぶにひそむように展開する横穴墓

A−9号墓の造付棺座は意外に細長い

いたち川流域に特徴的な棺室構造をもつ横穴墓

閉塞に使われたブロックなのか?

棺室内をチェックする北條さん  

 

所にあるような記述だったようなおぼえがあり、その上、遺構分布図にはA〜D群の4群しか落ちていないこともあって私たちも気付かなかったのです。今一度報告書を読み直してみると、離れていたのはE群の2つの横穴墓間で、A群と離れていたわけではありませんでした。報告者は同じ群を構成する2基が掲載できないので、あえて1基だけの分布図記載を行なわなかったのでしょうか。
さて、歩みを先に進めることにいたしましょう。西側から9番目でいよいよ棺室構造(かんしつこうぞう)を持つ横穴墓が登場しました。この棺室構造をもつ横穴墓は、いたち川流域に集中してみられる横穴墓で、いたち川流域以外の横浜市内では港南区、磯子区、港北区にいくつかみられるだけです。このため、集中して分布しているこの地域の特徴的な横穴墓の形態ということで、以前は「鍛冶ヶ谷式」と呼ばれていました。現在では、棺室構造を持つ横穴墓というのが一般的ですが、その分布範囲が鎌倉市まで広がっており、古い区分での鎌倉郡に分布しているということから「鎌倉型」という呼び方を使用している人もいるようです。
西側のA群ではこの棺室構造を持つ横穴墓は4基ありましたが、続いて訪れたB〜D群が展開する東側では12基ある横穴墓のうち10基が棺室構造をもつ横穴墓でした。

 

このなかで、特異だったのがB−6号横穴墓です。玄室の奥に設けられている棺室も大型で、まるで2つの玄室が連なっているような形状をしていました。この横穴墓は、戦前に村の乱暴者などを押込めるための牢屋や、こっそり行なう博打場として使用していたものと柳下さんがお話してくださいました。その証言を裏付けるように棺室の入り口部分には柱を嵌め込んだほぞ穴のようなものがありました。こうした施設は鎌倉に多く分布する中世の「やぐら」という遺構にも認められます。やぐらに認められるこうした施設には、柱を組んで扉を付けたのではないかと考えられています。いずれにしてもこの横穴墓には後世に手が加えられていることは確実で、いたち川をもう少し遡った上郷町などにやぐらがみられることから、やぐらとして転用されていた可能性も十分に考えられます。
今回、宮ノ前横穴墓群で確認できた横穴墓の多くは、開口部付近において大なり小なりの土が堆積していました。なかには半分以上が埋まっているものも存在していたくらいです。しかし、最もおそれていた天井部分の落盤などは認められず、わずかに開口部付近の風化・剥落(はくらく)などが認められるものの遺存状態はほとんどの横穴墓が良好といえるものでした。中には玄室内まで薄く堆積していた横穴墓には排水溝のような溝が存在しているものも見られました。排水溝とは玄室や羨道の奥壁や側壁に沿って設けられたり、奥壁の中央から開口部に向かって真ん中に設けられるものや、その両方をもつものなどがあります。この宮ノ前横穴墓群では棺室の中に排水溝を持つものがあることは調査によって知られていましたが、玄室部分には排水溝は存在しないはずでした。しかし、現状ではA−11号墓などには幅広い排水溝のようなものがありました。先ほどのE−1号墓の疑問とともに埋蔵文化財センターに帰り図面と写真を照らし合わせたところ、この横穴墓にはやはり排水溝は存在していませんでした。また新たな疑問が生じました。
通常、発掘調査では全掘(ぜんくつ)といって遺構の中の堆積土をすべて取り除いて、実測作業を行ない

大型の棺室?細かな点をチェックする

B−6号墓の利用話を語る柳下さん

幅広い排水溝なのか?

未開口の横穴墓は存在しないかチェック!

ます。しかし、学術調査や試掘確認調査などの場合、後に本格調査をすることからあえて全掘しない場合もあります。ではこの時の調査はどうだったのでしょうか? 推測するに当時の調査は、学校がお休みの日に女子高生を中心とした調査体制で行なっていたため、なるべく労力をかけずに行なったためこの様な方法をとったものと推測されます。確かに報告書の中にはC群を除き墓前域(ぼぜんいき)の掘削はせず、横穴墓の内部調査(実測)に留まった旨の記述も確認されます。
この横穴墓がある鍛冶ヶ谷付近はすでに開発が進み、まとまって横穴墓が存在しているのは宮ノ前横穴墓群だけとなってしまいました。その宮ノ前横穴墓群のある地域も、開発の波に呑まれ失われてしまう予定でした。しかし、開発業者が負債を抱え民事再生を申請したため、事業は凍結され宙ぶらりんの状態となっていました。このようななかで、近々横浜市が10年間という期間限定で借受け市民の森として利用することになったようです。まだ具体的にどのように利用していくのかは未定だそうですが、これほど良好にしかもまとまって遺存しているのは珍しいことで、今後何らかの形で利用されること望みたいと思います。
また、今回の探索でこの横穴墓群については、いまだ十分な発掘調査がなされているとは言えないことが分りました。特に、堆積土に覆われている羨道部分や墓前域と呼ばれる横穴墓の前の空間部分には出土品が多く認められることが知られていますし、犬走状を呈している山道もそれぞれのお墓を繋ぐ墓道である可能性も考えられます。また、未開口の横穴墓の存在も気になりますし、今後の動向には栄地域史研究会とともに埋蔵文化財センターも注意していきたいと考えています。(その2に続く)

*埋蔵文化財センターは2009.10.31まで都筑区勝田町にありました。

 

宮ノ前横穴墓群分布図(報告書より) 

今回の探索を行なった横穴墓の位置関係

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