新しい話

なぜ遺跡があることが分かるのでしょうか?

 以前に、「なぜそこに遺構があるのが分かるのか」という話しをしたことがありましたが、今回はもう少し規模を大きくして、なぜ遺跡があるのが分かるのかということについて説明しましょう。
 横浜市域では昭和の中頃から経済の発展とともに著しい都市化や宅地化が進み、今では自然のままの地面(人工的に造られた公園などを除く)を見る機会はめっきり少なくなってしまいました。 急速な都市化が進められていた昭和40年代のはじめ頃、この都市化が進むことで遺跡がなくなってしまうことが危惧(きぐ)されました。そこで、やたらに開発して遺跡が失われてしまわないように、横浜市教育委員会は昭和44年に「文化財保護措置要項」を実施しました。この要綱の目的は、横浜市内の(埋蔵)文化財が宅地開発事業等によって滅失し、または毀損(きそん)されることのないように必要な保護措置を行なうというものでした。その後、昭和62年には埋蔵文化財保護条例が制定され現在にいたっています。
 この「文化財保護措置要項」が制定される2年前に、横浜市北部埋蔵文化財調査委員会が文化財保護事業として、横浜市北部域に高密度に分布する遺跡の実態を把握し、開発による遺跡破壊を未然(みぜん)に防ぐための遺跡分布調査を行ないました。また、昭和44年には横浜市埋蔵文化財調査委員会が発足し、北部域以外の横浜市域の遺跡分布調査を行ないました。
 遺跡分布調査とは遺跡踏査とも呼ばれるものです。地図上で遺跡が存在しそうな場所にあたりをつけ、その場所に実際に足を運んで土器などの遺物が散布しているか、また遺跡が存在し得る場所であるかどうか確認する調査のことをいいます。このときに最も重要となるのが、遺物の散布状態を確認することです。これは表面採集といって、地表に現われている土器などの遺物を採集することで、その地面の下にどんな時代の遺構が存在しているのか推測することができます。
 こうして遺物が多く認められその下に遺跡がある可能性の高いエリアを、埋蔵文化財包蔵地(遺物を包含している場所)あるいは遺跡として台帳化し、昭和46年には『横浜市埋蔵文化財遺跡台帳』を刊行されました。この台帳に記載されている遺跡は昭和45年11月30日現在の数として1,890か所となっています。また、昭和45年には、現在の都筑区(当時は港北区と緑区)、市営地下鉄のセンター北駅とセンター南駅を中心とした周辺地域、いわゆる港北ニュータウン地域の開発案が遡上(そじょう)し、これに伴って事業地内の発掘調査が開始され、事業予定地内の268遺跡を確認・調査されました。こうした成果などを元にして、横浜市教育委員会は平成4年に『横浜市文化財地図』を作成します。
 この地図は、1万分の1の縮尺の地図を用いたもので、横浜市域すべてを分割し区ごとに遺跡の番号を付けることでより見やすい(検索しやすい)ものとなりました。その後、新区分による改訂(かいてい)などが加えられ、最も新しいものは平成16年度発行の『横浜市文化財地図』となっています。こちらの地図には2,316か所が遺跡として掲載されています。
 ですから、新たな土地開発や建築計画などがあがった際には、この地図で事業予定地を確認することで、遺跡であるかどうかがすぐに分るようになっています。そうして遺跡地を開発する場合には発掘調査を行なうこととなります。また、この地図上において遺跡地(埋蔵文化財包蔵地)として掲載されていない場所でも、周囲に遺跡があるような場合には、事前に確認作業を行なう場合があります。埋蔵文化財の発掘にかかる手続き等のお話しはまたの機会にしたいと思います。

 

 

写真は舞岡大原遺跡(戸塚区)の調査風景 

ページのトップへ  埋文ページホームへ