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見えるか?見えないか?中世のお城
 都筑区の茅ヶ崎東には中世城郭として著名な茅ヶ崎城跡があります。この城は5つの郭(くるわ)と呼ばれる平らな部分と、それを取り巻く空堀(からぼり)と呼ばれる溝、その溝の周りの土塁(どるい)という土でできた高まりから造られています。この茅ヶ崎城跡は、昔の状態を良く残していることでも知られていますが、現在(2008年)この景観を活かした公園として一部オープンされています。
 同じ頃に造られた城としては、港北区にある小机城跡がよく知られています。鶴見川を挟んだこの2つのお城、はたして茅ヶ崎城から小机城が見えたのでしょうか?
 まずは地図で確認してみました。しかし、現在の地図を見ても丘陵の多くは、開発によって地形が大きく変えられてしまっているので参考になりません。そこで、明治時代に作られた地図を参考にしてみました。
 茅ヶ崎城と小机城の直線距離は3.5kmあります。茅ヶ崎城の一番高い場所は39m、小机城の一番高い場所は42m(高さのデータは日本城郭大系調べ)です。しかし、茅ヶ崎城と小机城を結んだ線の途中には標高45mの場所があることが分かりました。その場所は茅ヶ崎城から1.2kmの場所にあります。これでは直接見ることはできません。
 では、茅ヶ崎城がどのくらいの高さだったら見えたのでしょうか? 計算してみたところ、茅ヶ崎城の最も高いところから7.56m上の場所からなら見ることができるようです。ですから、小机城を見るためには、高いやぐらを組み立てそこから見なければなりません。ただし、その場合でも途中に高い木など邪魔するものがまったくない場合と仮定した時に限ります。
 では、2つの城の間では目視(もくし)による連絡は行なわれていたのでしょうか? これには狼煙をあげて連絡をとっていた可能性が考えられます。
 狼煙(のろし)とは、昔に行なわれていた煙や火を使った通信方法のことです。煙を高く上げ、離れた場所からその煙を確認するという簡単な情報の伝達手段で、煙が見えない夜など場合には、煙ではなく火そのもので確認をとっていました。
 狼煙という言葉には狼(おおかみ)という漢字が使われています。これは、もともと狼煙を上げる際にオオカミの糞を火種にしていたことからと言われています。オオカミの糞を使った狼煙は、真っ直ぐ上がって風にも強いと言われています。これは、オオカミがイヌと較べると純粋な肉食であるため、その排泄物に動物性タンパク質の残滓がより多く含まれているからと言われています。しかし、日本ではオオカミの糞を入手するのがさほど容易ではなかったため、実際には藁(わら)や杉の葉、火薬などを代用していたようです。
 狼煙は古くは烽燧(ほうすい)呼ばれていました。烽も燧も「のろし」を意味しますが、烽は昼間に上げる煙のことを指し、燧は夜間に上げる火のことを指しています。
 この煙などをあげる方法は、人や馬が手紙を運ぶよりも早くそして遠くまで伝えることができした。また、狼煙をいくつも繋ぐことによって、さらに遠くまで情報を伝えることも可能でした。ただしその欠点は、煙や火を用いているために天候に左右されてしまうことです。また、伝えられる情報量に限りがある点では、人馬による伝達よりは劣っています。しかしながら、伝達速度に関しては、ある実験では時速140kmを超える成果があげられたようです。
 日本では、弥生時代(今から約2,400年前)に大陸からその方法が伝わり、すで使用していたものと考えられています。7世紀になると、大陸からの侵略に備えるために防人(さきもり)とともに対馬などに設置されたり、内乱に備えるために使用されていたようで、その様子が『日本書紀』に記載されています。さらに8世紀には、その設置間隔や狼煙のあげ方などが制度として確立していたようです。しかし、その制度も徐々に衰えて9世紀にはなくなってしまいました。その後は、おもに戦国時代などの合戦などに使用され、火薬の発達により煙の色を変えるなど狼煙も進歩していきました。
 現在では、光通信で100Mbpsなどと恐ろしいほどの情報量を瞬時に遠くまで送ることができるようになりましたが、昔の人たちは情報を伝えるために苦労していたんですね。

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