ためになる?豆知識

オランダの焼き物その後

 以前、金沢区の瀬戸神社旧境内地内遺跡から出土した、オランダのプリントウェアを紹介しましたが、その後はどうなっているの?という問い合わせもあり、今回はその続編となります。


 遺跡から出土する輸入陶磁器の多くは中国陶磁ですが、東京の近世遺跡などではわずかながら西洋の陶磁器も確認されています。そのなかでも、ペトゥルス・レグゥー社のものは珍しいものといえ、東京文京区の東大構内遺跡医学部附属病院給水設備棟地点(加賀藩邸)AL37-1(大型土坑)や、長崎県長崎市の出島関連の遺跡や興善町(こうぜんまち)遺跡で確認されているほか数遺跡しかありません。また、何れの遺跡でも器種は皿が主体で、瀬戸神社旧境内地内遺跡のようなティーカップ状を呈したものでは、茅ヶ崎市の上ノ町遺跡の2区2号溝状遺構から出土したOLYMPIAぐらいとなり、さらに珍しい出土例といえます。


 ペトゥルス・レグゥー社のインプレスド・マーク(押印=窯印)として最も有名なのは、スフィンクスの図柄です。同社がスフンクスの図柄を用いるようになるのは1883年以降で、それ以前は瀬戸神社旧境内地内遺跡で出土したものと同じように、王冠とロープの図柄に1851 PRIZE MEDALと記載されているもので、このインプレスド・マークは、1851年から1880年まで使用されていた窯印です。


 研究者によると、ペトゥルス・レグゥー社製品は、日本には1859年にキャプテン・D指揮によるA.R.Falk号に積載され、出島に持ち込まれたと考えられています。MILLER(水車小屋)、GLEANER(落ち穂拾い)などの図柄で藍単色(コバルトブルー)のものが多く、次いで赤、緑、紫などが続き、金彩の上絵付けのものは発掘調査では見つかっていないようです。先の東大構内遺跡出土のものは藍単色(コバルトブルー)のMILLERの鉢で、釜印は瀬戸神社と同じ王冠とロープのものとなっています。

 

 また、金彩製品は日本向け製品の中にあっては、比較的時期が遅くみられ、日本で好まれたものだと言われていたようですが、その後、インドネシア市場向けの輸出製品であると推測されています。こうした金彩製品は、インドネシアだけではなく、日本国内でも受け入れられると判断して持ち込まれましたが、結果として、日本国内では単彩のものが好まれたようです。その後、レグー社の商船が日本に渡航した記録はないようで、日本市場の開拓は失敗に終わったようです。ただし、脇荷として持ち込まれていたことは考えられるようで、それを裏付けるように、出島内にはペトゥルス・レグゥーの刻印があるストーンウェア(せっ器)製の門柱が残されているほか、長崎歴史文化博物館には手描きの宣伝用の大皿も所蔵されており、出島内にはペトゥルス・レグゥー窯の専門店が設けられ、国内用に積極的に販売していた可能性があると考えている研究者もいるようです。


 プリントウェアは銅版転写技術を用いて文様を施す軟質磁器のことをいい、日本ではオランダ商人が当時植民地としていたインドネシアを経由して長崎の出島に輸入されていました。当時の人たちは、これらヨーロッパ各地の風俗や風景画が施されている磁器を「阿蘭陀焼」と呼び、さらにその写しとして手描きの染付陶磁器まで作成するなど、ブームになっていたようです。


 プリントウェアの名前の由来は、絵柄を掘り込んだ銅版に薄紙をあててローラーで刷り、銅版の絵柄を写し取ったこの紙を素焼きの器の表面に貼付けて転写(プリント)した焼物からきており、銅版の絵柄を写し取ったこの紙はデコール(DECOR)と呼ばれており、デコールの収集家もいるようです。 


 ごくわずかな期間にしか輸入されていなかったヨーロッパのプリントウェアが、金沢区の神社の旧境内の遺構から出土したなんて、ちょっぴりロマンを感じる出来事でした。昭和62年時に調査した遺物は、時間が経っているので埃がかぶっていて、すぐに全ての破片を確認することはできそうにありませんが、いつか他にもないか探してみたいです。

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