ためになる?豆知識

刻書土器とは

 今回は刻書土器(こくしょどき)のことをご紹介します。

 察しの良い方はもうお分かりかも知れませんが、読んで字のごとく文字や記号を土器の表面に刻(きざ)んで書いてある土器のことをいいます。また、この刻書土器と似ているものに、墨書土器(ぼくしょどき)というものもあります。こちらは墨書きによって、土器の表面に文字あるいは記号を記した土器のことを指します。

 文字が日本にもたらされたのは弥生時代のことです。最も良く知られているのは金印に書かれている文字です。江戸時代に福岡県の志賀島(しかのしま)で発見された金印は、『後漢書』の東夷伝(とういでん)にある「倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」と書かれているものに相当すると考えられています。この金印は東夷伝によると西暦57年に倭奴国王が授かったとされるので、国内ではちょうど弥生時代中期にあたることになります。しかし、国内で文字の使用が頻繁に見られるようになるのは5世紀に入ってからのことです。埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣には、辛亥年(=471年?)獲加多支鹵(ワカタケル)大王(=雄略天皇)を含む115字の銘が記されているのは有名です。

 この坏形土器は、戸塚区の品濃町立野南(たてのみなみ)遺跡から出土したものです。戸塚区には立野遺跡(信濃町)、立野南遺跡、立野遺跡、立野横穴墓群と遺跡の名称に立野という名称が付けられている遺跡が多く混同しがちです。この品濃町立野南遺跡は戸塚区品濃町にあり、平成5年にゴルフ練習場を建設する際に発掘調査が行なわれた遺跡です。調査の結果、古墳時代の竪穴住居跡2軒、平安時代の竪穴住居跡1軒、近世の炭焼窯が確認されています。この刻書土器は、H2号住居跡から出土したものです。Hは土師器を伴出する住居を表わした記号で、2号住居というのはその2番目の竪穴住居ということです。この遺跡はまだ未整理で発掘調査報告書が刊行されていないので、その出土状況などの詳細は定かではありません。

 文字は坏体部の中央やや下寄り部分に刻まれており、岡寺と読むことができます。「岡」という文字は読みにくいですが、この「岡」という字は市内では緑区の東耕地遺跡(ひがしこうちいせき)から出土した土師器の坏と坏蓋にも書かれています。これらの土器は墨書で「岡本寺」書かれています。

岡寺といえば、奈良県明日香村にある岡寺を思い起こします。この寺院は奈良時代から続く寺院として知られていますが、寺に隣接する治田(はるた)神社境内からは古い瓦の出土がみられ、創建当初は治田神社境内あたりにあったものと考えられています。また、近隣の飛鳥京苑池(えんち)遺構からは「岡寺」と記載された墨書土器が出土しており、あるいは品濃町立野南遺跡から出土した墨書土器も奈良の「岡寺」を指しているのかもしれません。今後の整理報告が待たれます。なお、現在この土器は当センターに収蔵されています。
 

   
 中央に刻書がみえる  下からみてみると
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