ためになる?豆知識

板碑(板石塔婆)について

 板碑(いたび)とは、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)と同じように石塔のひとつで、中世に多く使われていた石製の供養塔のことをいいます。正しくは板石塔婆(いたいしとうば)といいますが、広く世間には板碑という名前で通用していることから多くの人は板碑の名称を使用しています。

 板石塔婆の語源は、仏塔を指すインドのサンスクリット語のストゥーパという言葉が語源となっています。このストゥーパという言葉は、中国を経て日本に辿り着くまでに、卒塔婆(そとば)であったり塔(とう)に変化したと考えられています。確かに聞きようによってはそう聞こえなくもありませんね。今でも、供養する際に墓の脇木の細長い板を立てますが、あれも卒塔婆といい、よく見ると五輪塔(ごりんとう)の形に刻まれています。また、梵字(ぼんじ)で五尊などが書き入れられていたりもします。


 このストゥーパは、釈尊(お釈迦様)入滅後にその仏舎利(遺骨)を納めた土饅頭(どまんじゅう)のような形のお墓のことをいいます。このお墓の上には、平頭や傘蓋(さんがい)が建てられています。その後、仏舎利を安置する信仰とともに、釈迦関連の聖地を記念する施設や仏弟子のお墓としてインド各地に建てられるようになりました。しかし、どうやらストゥーパという言葉はそれ以前にも存在していたようで、もともとは頭頂に髪の毛をくくった形を意味するものであったようです。インドに現存する仏塔としては、紀元前3世紀にアショカ王によって建立されたサーンチ大塔が有名です。


 塔婆は本来、路盤(ろばん)・伏鉢(ふせばち)・請花(うけばな)・九輪(くりん)・水煙(すいえん)・竜車(りゅうしゃ)・宝珠(ほうじゅ)の7つのパーツと刹柱(せっちゅう=柱状をなして頭部に仏舎利を納めるもの)からなっているもので、宝篋印塔などの石塔類においては一番上にある相輪(そうりん)というパーツで表現されています。刹柱を除く7つのパーツは、五重塔などのてっぺんにアンテナか避雷針(ひらいしん)のように突き出している部分にあたります。よく見るといろいろな形が組合わさっています。


 だんだん違う話しになりそうなので、そろそろ板碑の話しに戻しましょう。板碑の形状は、板状に加工した石材の頭部を三角形にしています。また、頭部と反対側の先は基礎といって地面に建て(刺し)やすいように尖らせています。三角形をした頭部の下には二条線と呼ばれる2本の線刻で区画を行ない、その下側に種子(しゅじ=梵字で表した主尊)や被供養者、供養年月日などを刻むエリアを設けたものが一般的な形となっています。ただし、これら種子や供養年月日すべてが必ず刻まれているというわけではなく、省略しているものもありますし、供養の内容などを細かく刻んでいるものも存在します。


 板碑の多くは多く関東地方に分布します。その分布地域はいわゆる鎌倉武士の本貫地(ほんがんち=所領とした土地で、名字の由来地)であったと考えられ、当時の武士の信仰に強く関連していたものと思われます。種類としては、供養の内容から追善供養(ついぜんくよう=生きているものが、亡くなった人のために功徳(くどく)を積み、その功徳を亡き霊に振り向け冥福(めいふく)を願うこと。順修(じゅんしゅう)供養ともいいます)、逆修供養(ぎゃくしゅうくよう=生きている間に自分が仏事を行って自分自身の死後の功徳とする供養のこと)とに区別することができます。また、その形状や石材、分布地域から武蔵型、下総型、阿波型などに分類することができます。


 ちなみに武蔵型とは概していうと秩父や長瀞地域から産出される緑色片岩(りょくしょくへんがん=緑泥片岩ともいいます)という青みがかった板状に割れる石材で作られたものをいいます。また、下総型とは茨城県の筑波山から産出される黒雲母片岩(くろうんもへんがん)製の板碑のことをいいます。


 写真の板碑は港北区小机町の金剛寺2号横穴墓から出土した板碑です。残念ながら塔身部(とうしんぶ)の下半以下を欠損していますが、深く刻まれた二条線の下には主尊(しゅそん)である阿弥陀如来(あみだにょらい)を意味するキリークが、その下の左右には脇侍(わきじ)として観音菩薩(かんのんぼさつ)を意味するサ、勢至菩薩(せいしぼさつ)を意味するサクの種子(しゅじ)がすべて月輪(げつりん)とともに刻まれています。このように阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の3体が描かれているものを阿弥陀三尊と呼んでいます。また、種子の下には蓮座(れんざ=蓮華座)が描かれています。ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』ではヴィーナスは大きな貝の上に立っていますが、仏様の多くは蓮の花の上に立つ、あるいは座っているように表現されます。また、サの蓮華座の下には花瓶(けびょう)が刻まれています。サとサクの間には、元亨(1312〜1323)という年号が刻まれており、その下の年代部分は欠損していますが鎌倉時代に作られたものであることが分ります。この板碑は、横穴墓を二次利用し、やぐらのように奥壁に龕(がん)状の窪みを掘り込み底に嵌(は)め込まれて見つかりました。きっと阿弥陀如来が描かれているので、割れてはいますが大切にお詣りしていたのでしょう。


 最後になりますが、鎌倉の高徳院の大仏も阿弥陀如来です。また、阿弥陀くじはくじの形が阿弥陀如来像の光背(こうはい)に似ていることから付けられた名称です。知ってましたか?

 

板碑の各部分の名称(金剛寺横穴墓出土板碑)

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