横浜市歴史博物館

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特別展 吉田新田開発350周年記念
「横浜の礎(いしずえ)・吉田新田いまむかし」に寄せて

吉田新田図
吉田新田図

平成一八年(二〇〇六)は、吉田勘兵衛(よしだかんべえ)が吉田新田の開発を始めてから三五〇周年にあたります。これを記念して、横浜市歴史博物館では、一〇月七日(土)〜一一月二六日(日)を会期とする特別展「吉田新田開発三五〇周年記念 横浜の礎(いしずえ)・吉田新田いまむかし」を開催します。
吉田新田は、現在の中区・南区にふくまれる大岡川(おおおかがわ)・中村川(なかむらがわ)とJR京浜東北線(根岸線)によって囲まれた釣鐘状(つりがねじょう)の範囲です。この地域はかつて現在の中区元町あたりから北へと伸びる横浜村の砂州(さす)によって東京湾と仕切られていた入り海でしたが、吉田勘兵衛を中心とする多くの人々の努力により、三五万坪という広大な田園地帯へとその姿を変えていったのです。さらに安政(あんせい)六年(一八五九)の横浜開港以後は、開港場(かいこうば)の隣接地として、伊勢佐木町(いせざきちょう)に代表されるような繁華街(はんかがい)・町場(まちば)が形成されていきます。このように吉田新田は、近代都市・横浜の発展の中で、まさにその基礎を形づくっているということが出来ます。
開発者である吉田勘兵衛(良信)(よしのぶ)は、慶長(けいちょう)一六年(一六一一)に摂津国(せっつのくに)に生まれ、寛永(かんえい)一一年(一六三四)に江戸へ出て本材木町(ほんざいもくちょう)において木材石材業を営みます。「徳川の平和」と称(しょう)される社会の安定化の中、新たに日本の政治の中心となった江戸は、人口の急増や都市部の拡大といった成長過程にあり、商才に富んだ吉田勘兵衛は成功をおさめます。こうした中、勘兵衛は後に吉田新田となる入江(いりえ)の開拓を幕府へ願い出て許可を受けます。この工事は、明暦(めいれき)二年(一六五六)七月一七日に始まりましたが、翌明暦三年(一六五七)五月の大雨による洪水のため、新田の潮除堤(しおよけづつみ)が崩し流されて失敗してしまします。しかし、勘兵衛は、これに屈することなく、万治(まんじ)二年(一六五九)二月に再度、吉田新田開発の事業を起こします。二度目の工事は順調に進展したようで、寛文(かんぶん)二年(一六六二)二月には新田耕地の耕作が始まり、寛文七年(一六六七)には完成し、開発者である吉田勘兵衛にちなみ吉田新田と命名されます。ちなみにこの間、吉田勘兵衛が投じた資金は八千両と伝えられています。また、勘兵衛は、新田の鎮守(ちんじゅ)として日枝(ひえ)神社(お三の宮(さんのみや))を勧請(かんじょう)するとともに、菩提寺(ぼだいじ)の日蓮宗常清寺(じょうせいじ)を建立(こんりゅう)しています。こうして開発された新田は、延宝(えんぽう)二年(一六七四)に施行された検地によれば、石高(こくだか)一〇三八石・面積三五万坪という広大なものであり、太田村(おおたむら)・石川中村(いしかわなかむら)・横浜村(よこはまむら)などといった周辺村々から八〇軒前後の農民たちが移住して耕作しています(周辺村々に居住する農民が吉田新田まで通って耕作する部分もあります)。
以上の開発の過程を中心に、今回の特別展では、吉田新田が開発された一七世紀後半の時代状況、吉田新田の開発・経営のありかた、開港以降における吉田新田の変貌(へんぼう)、大正末年以降における吉田勘兵衛の顕彰(けんしょう)等について、戦後初めて公開される吉田家文書を中心に、約200点の絵図・古文書などによって跡づけてみたいと思います。
(図版:「吉田新田図」「開運扇図」)

(斉藤 司)

開運扇図