横浜市歴史博物館

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研究余話
「吉田新田の開発」

一,吉田新田の概要
 横浜市役所や神奈川県庁が存在する横浜の中心部・関内の西側には、大岡川・中村川とJR京浜東北線(根岸線)によって囲まれた平坦地が存在しています。この地域はかつて現在の中区元町あたりから北へと伸びる横浜村の砂州によって東京湾と仕切られる入り海であり、三五〇年程前の明暦二年(一六五六)七月から江戸の材木・石材商人であった吉田勘兵衛が中心となって行われた新田開発により耕地化され、(武蔵国久良岐郡)吉田新田と命名されました(当初は「野毛新田」「野毛村新田」と呼ばれていました)。
 吉田新田は、西端に位置する日枝神社(通称「おさんのみや」)を頂点とし、東側の東京湾に向かってしだいに広がっていく釣鐘状の地域で、一一六町三反五畝八歩(一町=一〇反、一反=一〇畝、一畝=三〇歩、一歩=一坪の換算で約三五万坪)の広大な面積であり、この内九四町一反四歩が水田、二〇町三反八畝二三歩が畑、一町八反六畝一一歩が屋敷となっています。こうした新田を取り囲むように、大岡川・中村川・海に接する外縁には総延長四一五八間(一間=一メートル八〇センチ換算で、七四八四メートル)の堤が築かれていました。水田に不可欠な用水の取水口は、釣鐘の頂部にあたる日枝神社周辺に設けられ、そこから現在の大通り公園をルートとして流れる中川を中心に、多くの分水路により新田のすみずみまで供給されていたと思われます。新田内部における地名は、新田を南北に貫く六本の道によって分けられた「一つ目」「二つ目」〜「七つ目」(海寄りの東側が「一つ目」、それより順次西側へ移るに従い数を増していく)という呼称と、新田中央部を東西に流れる中川を基準に分割される「南」「北」を合わせることにより、「南一つ目」「北六つ目」などといった呼称がなされています。
 以下、石野瑛『横浜旧吉田新田の研究』に所収・紹介されている文書を中心に、吉田新田の開発過程について概観してみます。

二,開発資金の調達
 先述したように、吉田新田の開発は明暦二年(一六五六)七月一七日に開始されました。工事は順調に伸展したとおもわれますが、翌明暦三年(一六五七)五月一〇日からの大雨のため、一三日に潮除堤(しおよけつつみ)が流失して失敗に終わっています。この第一回目の開発工事については資料が残されておらず、詳しいことは不明です。
 それから二年後の万治二年(一六五九)二月一一日に再度の開発工事がはじまります。明暦年間の工事の失敗からわかるように、入り海とはいえ海面を埋立・干拓する吉田新田の開発はリスクが高く、開発にあたっては吉田勘兵衛を中心に、複数の人物が資金を支出したようです。
 
   請取申金子之事
 合金子五拾両ハ江戸小判也
右ハ金沢領野毛村新田境(堤カ)之入用金ニ慥ニ請取申候、新田之割ハ十口ニ割、五口ハ惣中間へ取申候、残五口ハ金本へ取申候、右之金子五拾両ハ我等内へ御金候、金高ニ応し新田之地広狭可有候、金本とも新田地割候時分貴殿へも割口可遣候、少も違背申間敷候、仍為後日如件
   万治弐年
     亥ノ八月十日 坂本七兵衛(花押)
       柚川作之丞殿
  
 史料は、二度目の工事が開始されてからほぼ半年後の万治二年(一六五九)八月一〇日に作成された「請取申金子之事(うけとりもうすきんすのこと)」という文書で、「金沢領野毛村新田」(=吉田新田)の「入用金」五〇両が柚川作之丞から坂本七兵衛へ支出された際の受領書です。注目すべきは「新田之割ハ十口ニ割、五口ハ惣中間(そうなかま)へ取申候、残五口ハ金本へ取申候」という文言で、それによれば新田開発の資金については、全体を一〇口に分け、五口を「惣中間」、残りの五口を「金本」が、それぞれ支出することとしています。「金本」は、全体の五割を負担する最も多額の出資者であることから、新田開発の中心人物である吉田勘兵衛が該当するでしょう。また、残り五割(五口)については「惣中間」と称される共同出資者たちが支出していることになり、おそらく坂本七兵衛もそうした「惣中間」の一人と考えられます。そして、「惣中間」に加入している人物も、他から出資を募ったものと推測され、史料にみられる柚川作之丞も、そうした「惣中間」の一人である坂本七兵衛に対して出資した人物と思われます。
 次に留意すべきは「金高ニ応し新田之地広狭可有候、金本とも新田地割候時分貴殿へも割口可遣候」という記述で、「新田地割候時分」=新田開発が終了した際に、出資した金額に応じて耕地(の所持権)を分配するという内容になっています。柚川作之丞による五〇両の支出は、いわば開発完了後における土地分配を前提にした先行投資ということになります。


表 元禄13年(1700)吉田新田地目別面積表
地 目
面 積
上 田
10町2反3畝02歩( 8.8%)
中 田
20町5反8畝27歩(17.7%)
下 田
63町2反8畝04歩(54.4%)
小 計
94町1反0畝04歩(80.9%)
上 畑
4反4畝25歩( 0.4%)
中 畑
3町6反9畝06歩( 3.2%)
下 畑
16町2反4畝22歩(13.9%)
屋 敷
1町8反6畝11歩( 1.6%)
小 計
22町2反5畝04歩(19.1%)
総 計
116町3反5畝08歩(100%)
出典:元禄13年「武州久良岐郡吉田新田辰御年貢可納割付」
注:1町=10反、1反=10畝、1畝=30歩

三,開発地の分割と吉田勘兵衛による集積
 こうした資金調達により、開発工事は順調に伸展したと思われ、工事開始から三年後の寛文二年(一六六二)二月には最初の小作証文が作成されます。すでに新田を取り囲む堤の築造はもとより、新田内部における田畑の地割や用水路の確定などの施設整備が完了し、農民を入植させ開発した田畑の生産性を高めるという段階に進んでいることがうかがわれます。ただし、寛文二・三年時の小作証文の宛名は「新田御中間衆中」となっており、新田の生産力が安定していないため、「金本」+「惣中間」による共同管理が行われていたと思われます。その後、翌四年時には吉田勘兵衛宛の小作証文がみられるようになり、この間に投資金額に応じた田畑の分割が行われたと思われます。新田の総面積一一六町三反五畝八歩から推測すると、一口あたりの面積は一二町前後ということになります。
 しかし、日枝神社付近の取水口から取得する水によって水田稲作を行う吉田新田の場合、耕地の所有者が分かれていては用水の維持管理上都合が良くなかったためか、寛文九年(一六六九)〜延宝三年(一六七五)にかけていったん分割された新田内の耕地を、吉田勘兵衛は買い取りにより集めていきます。現在残されている文書だけでも、この七年間に吉田勘兵衛が取得した耕地合計は二六町九反六畝二八歩余、その代金は五七五両に達します。なお、取得した耕地の旧所持者は、坂本養庵一二町四反七畝二三歩、砂村三郎兵衛一三町二反九畝五歩、友野与右衛門一町二反で、坂本養庵(史料にみられる坂本七兵衛と同一人か関係のある人物であろう)と砂村三郎兵衛の所持地が「惣中間」における一口分に近似していることから、この両人は一口分の出資をしていたと推測されます。こうした新田内における吉田勘兵衛の土地取得により、吉田新田全体が勘兵衛の所持地となっていくのです。

(斉藤 司)

開発前の吉田新田 開発前の吉田新田(吉田貞一郎氏所蔵)
開発後の吉田新田 開発後の吉田新田(吉田貞一郎氏所蔵)
吉田新田風景変化模型(常設展示室) 吉田新田風景変化模型(常設展示室)