Q&A

Q : 地面にわざわざ穴を掘って家を建てるのはなぜですか?

先日、孫が大塚遺跡で復元された竪穴住居を見学してきました。孫から「なぜ、昔の人は地面にわざわざ穴を掘ったのか? 地面に建てた方が楽なのでは?」と質問されました。「昔の人たちは洞窟や横穴を掘って住んだりしていたので、穴を掘って住むことに慣れていたし、竪穴にして家の周りの壁を作らなくてすむから簡単だったのでは」と答えましたが、いまひとつ自信がありません。小学5年生にわかる答えをご教示ください。よろしくお願いします。 nanaojiさん(金沢区65歳)からのご質問

A お孫さんは都筑区の国指定史跡大塚・歳勝土遺跡公園に行かれたのですね。小学5年生ではまだ、歴史の勉強も授業で習っていないのでしょうに、埋蔵文化財や歴史に興味を持っていただきありがたいことです。


 さて、ご質問にお答えする前に、まずは竪穴住居の復元のことから説明しなければならないでしょう。いわゆる原始・古代における竪穴住居については、絵画のような記録資料が残っていないので、あくまでも発掘調査の成果や周辺の民族例などから推測したものであることを理解してください。ではどうやって復元したのでしょうか?


 竪穴住居を発掘すると、家の中から焼け残った柱や屋根材などが炭化して残っている場合があります。また、低湿地のような場所にあった竪穴住居を発掘すると、木材や繊維質のものがそのままの状態で検出する場合があります。こうした資料を民族例と照らし合わせることによって、あの形状が推測されているのです。もちろん、建築学や構造力学などの手助けを受けていることはいうまでもありません。


 大塚遺跡の復原住居はご存知のように弥生時代中期のものです。弥生時代になると銅鐸(どうたく)などの遺物に建物を表現したものが幾つか認められます。ただ、残念ながら遺跡公園に復元されているようないわゆる竪穴住居の形状のものはなく、高床式の倉庫状のものや楼閣(ろうかく)のような図柄が描かれているに過ぎません。こうした建築物はある意味特殊(特別)なもので、道具に建物を描くことで、儀式的なものや身分的なことを表現する目的があったと考えられ、一般的なもの(建物)を表現する必要がなかったのでしょう。また、古墳時代には、奈良県佐味田宝塚古墳から出土した家屋文鏡という倭鏡(わきょう)に4種類の建物が描かれています。このうち、入母屋造伏屋建物(いりもやづくりふせやたてもの)と称されているものがいわゆる半地下式の住居ではないかと思われますが、蓋(きぬがさ)の表現があることから高貴な人物の建物であると考えられます。ですから残念ながら、一般的な住居の形状については、推測の域を出ることができないのです。


 弥生時代に入ると、大陸から稲作とそれに関わるさまざまな技術や文化が持ち込まれます。大陸で稲作を行っている人たちの多くは、高床式の住居を使用しているようですが、日本国内では稲作がもたらされてからも、縄文時代から続く半地下式の竪穴住居の形態を採用しています。研究者のなかには、道具や文化が取り入れられる際には。住居の形態も当然それに属するものになるのではと考える方もおり、住まいの形だけが前時代からの特徴をとり続けたという点は特異であるといえるのかもしれません。


 また、近年の発掘調査例では、大塚遺跡のような形の竪穴住居ではなく、地上に出ている部分は屋根の部分が低く、平べったい形をしていると思われるものも検出されています。高くて急な屋根の勾配より、平たい方が登り易く、また作業も簡単であったのでしょう。また、こうした住居の屋根材の上には土で覆われていた痕跡も確認され、勾配がきついとせっかく葺いた土が流れ落ちる可能性が高くなってしまいます。壁に相当する部分の面積が少なければ、そこに使用する木材も少なくてすみそうです。


 道具も今ほど十分でない当時の人たちは、家を作る際にいかに省力化(材料も時間も)するかがひとつの課題でした。家を構成する木材や屋根材に利用する萱などを集めるには相当な時間がかかることが予想されるので、できるだけ少ない材料で住み易い環境を整えるために、考えだしたのではないでしょうか。もともと、nanaojiのおっしゃるように岩陰や洞窟を利用して生活していた人たちは、自然の地形などを有効に活用するすべを身につけていたのでしょうから。


 それ以外にも、半地下式にする利点のひとつとして、一年を通して室内の温室度差がないようにするためとも考えられています。ただし、この考え方には懐疑的な意見もあります。今でこそエアコンで一年中快適な環境をつくり出すことができますが、四季のある日本では、外気温から受ける影響は半端ではないはずです。また、萱(かや)のようなもので十分に覆われていいたにしろ、すきま風は入り込んでしまうわけで、半地下式にすることで風を妨げることにもなりました。北海道などの寒い地域で見つかる竪穴住居の中には自分の背丈以上に掘り下げているものがあり、こうした住居は外気温が影響しない所(凍っていない土のところ)まで掘り下げることによって、防寒対策していたものと考えられています。


 少し用途は異なりますが、イモ穴と呼ばれる種芋を貯蔵しておくための穴は、温度や湿度が低く発芽を押さえられるため、現在でも貯蔵施設として使われています。同じような考え方を原点に考えられているのかも知れません。


 部材が少なく、部材を加工する手間を省くことができれば、多くの人手をかけずに比較的短かい期間で竪穴住居を建てることができ、狩猟や採集などの食料の調達により時間を割けることができたと思われます。もちろん、現代人の私たちの考え方と、原始・古代の人たちの考え方は異なっているでしょうし、案外全く違うことを理由にしていたのかも知れません。今後の調査例に期待をしたいところです。


 最後にnanaojiさんのもうひとつのお願いである小学5年生が理解できる説明にまとめてみましょう。

 復原住居が半地下式の形状をしているのは、当時の(生活)環境に適した、少ない材料と労力で組み立てることができるために選ばれた家の形状です。


 なお、この回答に際しては、質問の内容から判断して、横浜市歴史博物館の橋口豊学芸員に協力していただき作成しました。また横浜市歴史博物館を訪ねて分からないことや疑問があったら、声をかけてくださればお答えしますと言っていましたので、このQ&Aのコーナーともどもご利用してください。 

 都筑区中川中央にある大塚・歳勝土遺跡公園の復原住居(弥生時代中期)

 

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