Q&A

Q : 港北ニュータウンのオリジナル土器を教えてください

 横浜市歴史博物館刊行の『常設展示案内』の21ページに、他地方の影響を受けた土器という写真が掲載されていますが、逆に港北ニュータウンのオリジナルな土器というとどれになるのでしょうか? また、いろいろな地方の土器(型式)が融合したそうですが、結果港北ニュータウン地域の独自の土器はうまれたのでしょうか? 伊東 直子さん(港南区)からのご質問

A ご質問ありがとうございます。ご質問は本来は横浜市歴史博物館のものが回答するのが望ましいと思われますが、埋蔵文化財センターも港北ニュータウンの発掘調査に携わっている関係上、せっかくですので歴史博物館に代わってお答えします。

  まず、ご覧になっていた写真は、縄文時代の人と流れを紹介するコーナーの挿図(写真)として掲載したものです。また、その後の23ページに詳しく、どの辺りからの影響を受けているものかを日本列島の地図(北海道、島嶼部をのぞく)を用いて解説しています。このコーナーは「(縄文時代の)土器にみる他地域との交流」として、縄文時代の各時期における他地域からの影響を受けている代表的な土器を掲載し、さまざまな地域との交流があったことを解説しているもので、ご存知のように縄文時代は1万年以上続いており、その間さまざまな地域の影響を受けています。

 ここでご質問に答える前に整理しておかなければならないことがあります。港北ニュータウン地域においては、縄文時代の各時期の遺跡が調査され、莫大な量の土器が出土しており、各遺跡によってさまざまな特徴があります。それゆえご質問にあるオリジナルな土器というものが何であるかを考えたときに、しいてあげるとするならば、土器型式になっている土器しかオリジナルといえるものはないような気がします。港北ニュータウン地域で土器の標識遺跡となっているものは、残念ながら草創期の花見山遺跡しかありません。ただ、『花見山式土器』についても研究者によって評価が分かれています。

  なお、オリジナルな土器にこだわらずに、各時期のこの地域でのポピュラーな土器にはどんなものがあげられますか?という質問であれば回答もかわってきます。横浜市歴史博物館に展示している土器の中で、縄文時代中期中葉の港北ニュータウン地域のポピュラーなものの一例としてあげるとすれば、三の丸遺跡出土の深鉢形土器をあげることができます。この土器は『勝坂式土器』と呼ばれる土器で、相模原市の勝坂遺跡を標識遺跡としています。縄文時代中期中葉に横浜市域を含めた関東地方南西部に広く分布しており、この時代の遺跡からは似たような文様の描かれた土器片が大量に見つかります。当センターの展示室にも一部展示しています。もし、この他の時期のものについても知りたいのであれば、直接横浜市歴史博物館の学芸員にお尋ねしていただくか、不便ではありますが、埋蔵文化財センターまでいらしていただければ紹介できると思います。

  また、後段のご質問ですが、こちらについてもそれぞれの遺跡で、他地域からの要素の受け入れ度合いが微妙に異なっており、独自の土器といえるものはないのではないでしょうか。

  最後に、この質問の回答のために、横浜市歴史博物館の常設展示を確認したところ、港北ニュータウン地域出土の縄文土器の展示が思いのほか少なく、また、ポピュラーなものが意外に少ない事に気づきました。やはり、横浜市域の歴史を解説するためには仕方がないのでしょう。こうした問題を補うためもあって、これまで「横浜の遺跡展」のなかで港北ニュータウン地域内の遺跡をたびたび紹介してきました。伊藤さんのように、ポピュラーなものを並べて欲しいという意見が多ければ、今後「横浜の遺跡展」で取上げる事があるかも知れません。

『常設展示案内』21ページ写真(他地域の影響を受けた土器)

『常設展示案内』23ページ挿図(土器にみる他地域との交流)

 

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