Q&A

Q : 笹下城は何区にあるのでしょうか?

 先日埋文よこはま33号の中世城郭特集記事をみて、横浜市域にも沢山の城跡が残っていると驚きました。これから掲載されている伝承地一覧表をもとに城跡を巡ってみようかと思いみていたところ、18番の笹下城が磯子区になっているのに気づきました。たしか港南区のホームページのなかで、港南区にあるようになっていたと思いますが、実際のところどうなのでしょうか?
戸塚区 境木地蔵さん からのご質問

A 埋文よこはまをご覧になっていただき、ありがとうございます。昨年度から埋文よこはまはリニューアルを行ない、紙面を一新しました。これまでのものよりガイドブック的な要素を強くしたので、境木地蔵さんのようなお問い合わせが少しくるようになりましたが、より多くの方に手に取ってもらえるようになり編集担当も喜んでいます。


  
さて、ご質問にある笹下城跡ですがお答えから先にいいますと、両区に跨がって存在する城跡と考えていただければよいかと思います。磯子区や港南区といった行政区画は、のちの時代に住む人が暮らしやすいように区分されたものですから、城が機能していた時代には全く関係のないものです。


 ただ、埋蔵文化財センターでは一覧表外に示しているように、その所在地点については『日本城郭大系』第6巻にしたがって表記しています。また、平成16年刊行の『横浜市文化財地図』でも磯子区No.41遺跡が間宮氏笹下本城として掲載されています。


  
城跡を含む遺跡の多くは丘陵上に位置していますが、丘陵上の稜線は道として使用されることが多く、こうした道を境に行政が区画を行なうことは少なくありません。また、33号のなかにもあるように、中世の城郭は熊本城のように天守閣や石垣、水堀などをもつものとは異なり、自然の地形を巧みに利用したものですから、ひな壇状の平坦面を曲輪にしたり、いくつかの小丘陵(舌状台地)などを見張台(小屋)や出城として使用するものもあります。ご質問にある笹下城もこうした城跡のひとつとなっています。


 当時の建物が残っていたり、城の配置図(縄張り図)があれば間違いないのでしょうが、中世の城跡の場合、研究者がそれぞれ独自の視点で、地形や伝承などから城域(縄張り)を推察しているのであって、実際に発掘調査を行なっているわけではありません。このため、不明な点が多いといわざるを得ないのが現状です。


  
33号のメインテーマである寺尾城(鶴見区)の発掘調査の場合もそうで、空堀に関しては平成5年の調査時に既にその半分が見つかっていましたが、空堀の脇に存在していると考えられていた土塁といわれていた高まりについては、調査範囲外であったため確認できませんでした。今回の調査では残る半分の空堀と土塁状の高まり部分の調査であったため、土塁の形状などが分かると期待していたところでした。しかし、調査の結果土塁ではなく、ゴミなどが入っていた二次堆積層であることが判明しました。このように、表面上の見ためだけで判断することは非常に危険であるということを分かっていただきたいのです。


 話は戻りますが、笹下城跡の場合『日本城郭大系』に掲載されている想定図によるところが大きく、同書の説明によれば、居館群は下屋敷、内屋敷、総屋敷、かじ屋敷の4つの屋敷から構成されているといいます。説明文からはこのうちの内屋敷と呼ばれる場所が主たる場所であったかのように読み取ることができます。また、その場所は磯子区に位置しているようです。一方、空堀と思われる場所や解説版がある成就院(坊)は港南区側に位置しているので、一度でも現地に訪れた方は現存している彫り状のものを目にするため、港南区に所在する城跡と思うのでしょう。繰り返しになりますが『日本城郭体系』に掲載されている想定図でも、その縄張りは広く表現されていますので、両区に跨がる城であることが分かると思います。


  
ここから先は、現地を訪れて境木地蔵さんが判断していただければよいと思います。現地を訪れてなにか感じた、または新しい解釈ができるようでしたら、ぜひ教えてください。

港南区側に設置されている説明板

空堀と考えられている先端部分(写真奥側が磯子区)

 

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