Q&A

Q : 尺度郷ってどこにあったのですか?

 先日、何かの本に旧相模国の鎌倉郡は7つの郷からなると書いてありましたが、尺度という字が読めませんでした。また、現在のどの辺りにあったものかも想像できませんでした。よろしかったら、お教え願いませんか。
たけじいさん(厚木市)からのご質問

 まず、読み方ですが尺度郷(さかどごう)と読みます。この尺度という地名は、正倉院文書の『相模国封戸租交易帳』に出てくる地名です。実際には「尺度郷伍拾戸 田貳伯貳拾伍町捌段貳拾 歩 不輸祖田伍拾 町貳段伯陸拾 歩 見輸祖田壹伯陸拾捌町伍段壹伯貳拾歩 祖貳仟伍伯貳拾捌束」と記載され、尺度郷には50戸の家が存在し、以下田畑がどれ位あったのかが書き示されています。


 また、承平年間(931-938)に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』の相模国鎌倉郡の条に「沼浜 鎌倉 崎立 荏草 梶原 尺度 大嶋」とあります。『横浜市史』ではこれらの地名を現在の「逗子、腰越、藤沢市柄沢、鎌倉市梶原、戸塚区矢部の大島山」に比定し、尺度については地理書の記載について一般的に順序立てて書くことから、梶原と大嶋の間に存在するものとし、本郷村(現在の栄区の中心)辺りにあったのではないかと推測しています。


  本郷とは律令制において郷の中心地のことをいいます。今では本郷台の住居表示や、駅・学校など公共の施設の一部の名称しか残っていませんが、明治時代には本郷村という行政単位が存在していました。また、本郷村*ができる以前は上野、中野、鍛冶ケ谷、小菅ケ谷、公田、桂村の六村を本郷6(か)村と称していました。


 律令制度がしかれる以前の古墳時代後期においても、大規模な七石山横穴墓群が造営されるなど、大きな集団(地方豪族)がこの地に住んでいたことは分かっており、横穴墓群との直接的な関係はありませんが、弥生時代後期から奈良・平安時代にかけての複合集落である飯島町880番地外所在遺跡なども調査されています。また、七石山横穴墓群が展開する本郷台駅周辺は、江戸時代には小菅ケ谷村という村でした。『新編相模国風土記稿』という地誌のなかには、小菅ケ谷村に鎌倉幕府の3代執権である北条泰時の娘の居館跡があったという記述がありますから、古代のみならず中世においてもこの辺りの中心的な場所であったのでしょう。


 このように長い間、いたち川や柏尾川に開析された広大な沖積地に田を作り、収穫した稲を管理するための場所が近くにあったと考えるのは当然のことです。いまだ、明確に場所を特定することはできませんが、栄区の小菅ヶ谷周辺に尺度郷があったと考えても問題はないのでしょう。

*本郷村には江戸時代の小坂郷笠間村も加えられました。

飯島町880番地外所在遺跡
弥生時代から平安時代の複合集落で写真左手が柏尾川沖積となります。

TOPへ戻る 一覧画面へ戻る 埋文ページホームへ