Q&A

Q : 戦争関連の資料を探しています

 小学6年生を対象とした戦争関連の資料を探しています。できるだけ身近な情報を集めたいと思っているのですが、栄区内での戦争に関する記述のある資料はありませんか?
村井 俊彦さん(金沢区)からのご質問

 ご質問ありがとうございます。質問の文脈からみると、どうやら埋蔵文化財に直接関係しないものと思われます。当センターの職員はこうしたことに精通していないのでちょっと困惑しています。ただ、埋蔵文化財センターがこれまで行なってきた発掘調査においても、わずかながらに戦争関連施設が出てきたこともあり、少しですが戦跡考古学や戦争遺跡について勉強しましたので、一所懸命に回答したいと思います。なお、ご希望どおりの回答ではありませんが、栄区内の戦争遺跡(遺構)の一つを紹介するかたちでしたいと回答させていただきます。

 栄区域で戦争関連の施設としてもっとも有名なのは、第一海軍燃料廠(ねんりょうしょう)です。この施設は昭和13年(1938)に、現在の本郷台駅前から栄消防署や神奈川県警察学校のあたりの広大な範囲に設けられた施設で、燃料や石油製品などの研究等を行なっていました。その敷地内には実験室や研究室、関連工場や燃料の貯蔵施設などさまざまな施設が設けられていました。また、敷地外にも大船海軍共済組合病院(現在の横浜栄共済病院の前身)や居住施設、食堂など燃料廠に勤める工員のための施設などが造られていました。

 第一海軍燃料廠が造られることになった小菅ヶ谷という場所は、当時海軍の重要拠点地である横須賀に近いということから選ばれたようです。燃料廠が建造される以前に敷設かれた横須賀線も、横須賀の海軍鎮守府へ物資や人などを送ることを目的とした路線ですが、第一海軍燃料廠が建設されたため、大船から燃料廠に向かう引込み線が敷かれました。この引込線は現在では廃止され、若い人たちにはその存在も忘れられていますが、環状4号線の笠間十字路から神奈川県警察学校に向かう道路は、引込線が敷かれていた場所を道路に造り替えたものです。また、交差点の逆方向の大船方面に向かった場所は、切通のようになっています。これも引込線を通すために開削された場所で、広い意味では戦争遺跡(遺構)といってもいいのかも知れません。
 なお、現在栄区内を縦断する環状4号線(県道原宿六浦線)も厚木航空隊と燃料廠と追浜海軍航空隊を結ぶために計画・整備された道路で、金沢区との境にあたる相武隧道(そうぶずいどう)も燃料廠と同じ昭和13年*から工事が始められています。
*完成は昭和18年

 この第一海軍燃料廠を造るにあたっては、短期間に建設するため、軍がなかば強制的ともいえる用地買収を行なったたようです。これで得た資金で近隣の鍛冶ヶ谷などに田畑を購入し農業を続ける人もいれば、廃業して国債を購入する人もいたようです。終戦後は駐留軍により接収され駐留軍の物資倉庫の「大船PX」として使用していましたが、昭和42年までにすべてが接収解除され、返還後は国・県・市の官主導によって、根岸線(計画当初は桜大線)、神奈川県警察学校や神奈川県消防学校(現在は移転し、跡地は地球市民かながわになっています)、神奈川県立柏陽高校、栄区役所、下水処理施設など公の施設を中心とした新たな町づくりが行なわれました。

 第一海軍燃料廠の歴史については、栄区役所が発刊している『栄区郷土史ハンドブック』や『栄の歴史』に掲載されていますので、参考にされたらいいかと思います。小学生を対象とするのであればより易しく書かれている『栄区郷土史ハンドブック』の方がよいでしょう。また、本格的な書物では、菊田清一著『第一海軍燃料廠とその周辺の戦争遺跡』に、著者が実際に歩いて確認した栄区内の戦争遺跡のことなど、地域の方からの聞き取りを混じえて詳細にまとめられています。

 戦争関連施設など(の痕跡)は、現在でも一部見ることができます。
 栄区役所の敷地に入る東側に残るコンクリート塀は、第一海軍燃料廠(大船PX)の敷地を囲う塀の一部です。京浜東北・根岸線線の北側にある信光社の塀の一部にも同様のものと門柱状のものが残されています。また、第一海軍燃料廠の区域を示す石柱も小菅ケ谷石神公園**などで確認することができます。

 環状4号線の天神橋から少しいたち川を上流に遡った南岸には、写真のような防空壕の入口をコンクリートで塞いで銃口だけを出せるような施設(銃眼)も見られます。なお、この防空壕は、周囲に奥行きのない矩形の窪みも見受けられることから、中世のやぐらを転用した可能性が考えられます。
 **公園内にある石柱については、海軍用地と記載されている面が燃料廠側を向いているため、開発を行なった際に近くの別の場所から移設された可能性が高いと思われます。各地域にお住まいの高齢者の方に話を聞けば、さらに多くの戦争遺跡を教えていただけるのではないでしょうか。 

 最後に、神奈川県立歴史博物館で2015年1月から3月に開催された企画展示『海にあがった海軍-連合艦隊司令部日吉地下壕からみた太平洋戦争-』に、埋蔵文化財センター所蔵の日吉台地下壕(港北区)から出土したスコップが展示品として出品されました。地下壕自体は周囲をコンクリートにより補強されて使用されていたため、このスコップで実際に掘削した可能性は低いと思われますが、これも戦争遺跡から出土した立派な出土品の一つであることは間違いありません。2015年は戦後70周年にあたり全国各地で戦争を振り返るイベントなどが行なわれるようです。こうした記念すべき年であるからこそ、いま一度地域に残された戦争の痕跡を見て勉強する良い機会なのかも知れません。

やぐらを転用したと思われる防空壕(銃眼が付けられている)

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