Q&A

Q : 七石山横穴墓群の調査報告書はあるのでしょうか?

 ホームページで栄区横穴探検の記事を見ました。私は横穴墓に興味があり調べているのですが、七石山(しちこくやま)横穴墓群の調査報告書はあるのでしょうか? あるとすればどこに行けばみることができるのでしょうか? また、栄区付近の横穴墓はいつから造られ、いつ終わったのでしょうか? ぜひ教えてください。よろしくお願いします。(栄区 西田 英明さん)からのご質問

A ご質問ありがとうございます。栄区横穴墓探検の記事は好評のようで、続編はまだかという声も漏れ伝わってきています。その後いくつかの横穴墓群を訪れているのですが、他の業務の忙しさを理由にいまだ文章化しておらず深く反省をしています。近いうちにまた公表していきたいと思います。

 さて、七石山横穴墓群の調査報告書の件ですが、これまでに次の4つの報告書が刊行されています。

 横浜市文化財調査研究会 1969 『昭和43年度 七石山遺跡調査報告書(1)』
 横浜市埋蔵文化財調査委員会 1971 『昭和45年度 七石山遺跡調査報告書(2)』
 明星大学考古学研究室 1980 『長谷久保遺跡・七石山横穴墓群』
 有限会社鎌倉遺跡調査会 2006 『七石山横穴墓群G群発掘調査報告書』

 最初の2つの報告書は京浜東北・根岸線(計画段階は桜大線)敷設に伴う事前調査で、残る2つは宅地造成の事前調査として行なわれた調査結果についての報告書となっています。ただし、前2つの報告書については、調査の概略を記載した『概報(がいほう)』として報告されているもので、残念ながら個別の横穴墓の詳細な記載はされていません。これらの調査にかかる出土遺物や図面類は当時の調査団から埋蔵文化財センターに移管されていますので、利用申請をしていただければ資料の閲覧、複製や貸出しなども可能です。

 発掘調査報告書については、当埋蔵文化財センターが刊行したものは、広く市民の方に利用していただけるよう、横浜市中央図書館に一括して18館(各区)分を納入しています。ただし、それぞれの図書館の収蔵・利用状況などの理由で、すべての図書館に収蔵されるわけではないようです。横浜市では横浜市立図書館蔵書検索システムが構築されていますので、ネット環境が整っているようでしたら、そちらでご確認してみるのが良いかと思います。このシステムでは、お近くの図書館にご希望の本がなくても、閉架図書となっていなければ、所蔵している図書館から近隣の図書館に送ってもらうことも可能なようです。便利な世の中になってきましたね。

 なお、埋蔵文化財センターが刊行した以外の報告書についても、当センターには図書室(一部閉架)がありますので、ここで見ることができます。ただし、古い時代の報告書や発行部数の少ないものなど、一部収蔵していないものもありますのでご注意ください。センターに収蔵されていない報告書については国立国会図書館等に行けば見ることができるかと思います。西田さんは栄区にお住まいのようなので、当埋蔵文化財センターにいらしていただければ早いかと思います。

 最後のご質問ですが、栄区周辺の横穴墓群は古墳時代終末期に造られたもので、研究者によって多少の差はありますが、古いものでも7世紀初めころに造られたものと考えられています。ご存知かと思いますが、横穴墓には同じ墓や供養に使われる石塔類のように、建立の紀年号があるわけではないので、ずばりいつ造られた(実年代)のかははっきりしません。このため、その構築年代は副葬品に頼るしかありません。しかし間の悪いことに、横穴墓が盛行する7世紀の中頃には薄葬令(はくそうれい)という、大規模なお墓を造ったり、豪華な副葬品を埋葬しては行けないようなおふれが出され、当然横穴墓に伴う副葬品も非常に少なくなってしまいます。また、ご存知のように横穴墓は1回の埋葬だけで終わるのではなく、複数回の追葬(再葬または改葬)が行なわれることがあり、副葬品がその横穴墓が造られた当初のもの(第1回目の埋葬)とは限りません。このため、横穴墓の形態が副葬品が造られた年代と必ずしもイコールにはならないのです。この点で、縄文時代の竪穴住居跡の炉跡(ろあと=囲炉裏)に埋けられている炉体土器(ろたいどき)がその住居の構築年代を決定するのとは異なっています。そこで、横穴墓の研究者は、改葬がなされておらず、なおかつ副葬品を伴う横穴墓を抽出・比較検討することで、副葬品を伴っていないものでも構築された年代が分かる横穴墓の形態の移り変わり(編年)を作っています。

 この形態の編年に照らし合わせてみると、栄区(特にいたち川流域に分布している)の棺室(かんしつ)構造を持つ独特な横穴墓は8世紀の前半代頃まで造られていたと考えられます。また、棺室と呼ばれる施設のなかには屍をそのまま入れられないほど小さなものがあり、棺室構造の横穴墓から火を受けた人骨が検出された例などから、栄区内の郷土史家のなかには棺室が他の横穴墓とは異なり、火葬骨入れる施設であると考えている人もいるようです。しかし実際には火葬骨の検出例も少なく、別の横穴墓(同じグループ中の大型の横穴墓)で骨化したものを改葬したのではないかという研究者もおり、いまだはっきりとはしていません。いずれにしても、日本に仏教思想が伝わり火葬墓が主流となっていくまでの過渡的な墓制のひとつの形態として使用されていたものと思われます。

在りし日の七石山横穴墓群(A群)

 

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