埋蔵文化財センターで出している印刷物に「公田ジョウロ塚遺跡」という名前の遺跡が載っていました。近くに上臈塚(じょうろうづか)という塚がありますが、上臈塚遺跡ではないのでしょうか?(栄区 とりりん)さんからのご質問
A ご質問にありました公田ジョウロ塚遺跡は、横浜市教育委員会が発行している『横浜市文化財地図』に栄区No.60公団ジョウロ塚遺跡として掲載され、昭和54年にその一部が調査されています。また、神奈川県立歴史博物館に所蔵されている横浜市公田町出土の人面把手の出土地としても知られています。
あれ?なんで公団なのって思いますよね? 実は、昭和54年の発掘調査記録が記載されている横浜市教育委員会発行の『昭和57年度文化財年報(埋蔵文化財その1昭和52〜57)』にも公団ジョウロ塚遺跡として記載されています。
現在こうした刊行物を作成する際にはパソコン(もはや死語に近いか?)のワープロソフトなどを使用し、デジタルデータとして直接印刷業者に手渡し印刷するのが通常ですが、この本が発行された昭和58年頃は、やっと商用(家庭用)のワープロがではじめた頃で、手書きの原稿を印刷所に手渡し、それを印刷業者が活字に変換するというスタイルを取っていました。ちなみにこの頃のワープロは画面に1行しか表示されていないのに30万円前後の価格という恐ろしいものでした。ですから、活字化するにあたっては、校正(こうせい)作業という大切な工程がありました。この校正作業とは、印刷業者が生原稿(手書き原稿)を正しく活字に変換しているかをチェックする工程です。もちろん現在もありますが、今ではデジタル入稿が主流となっているため、機種依存文字の文字化けや原稿作成者の誤変換を見つけるのがほとんどとなっています。
公団になったのはきっとこの校正時にもれてしまったためでしょう。活字化するにあたっては、当然文字変換機能を使用することとなりますが、当時の機械には十分な学習機能は備えられていませんでした。そのうえ、オペレーターは地名や人名などの固有名詞について熟知しているわけではなく、クセのある手書きの文字を活字化していくわけですから、打ち間違いがあってもしょうがないことです。
実際に、栄区以外の人に「公田」の読みを聞くと「こうでん」と答える人も結構います。「公田」と「公団」、「くでん」と「こうだん」地名に詳しくなければ、間違えてもしかたがありませんね。またこのような間違えが起こった原因のひとつとして、この年にほかの区で日本住宅公団が事業主体となっていた発掘調査も実施されことも考えられます。クセのある手書き原稿であればオペレーターが勘違いしてしまうのもうなづけます。また、校正時に気付けば良かったのでしょうが、「田」と「団」ですから、たくさんの文字に埋もれて見過ごしてしまったのでしょう。
ではジョウロ塚となったのはどういうことなのでしょうか? 「臈」と言う字は「臘」という字の異体字で、ワープロソフトでも普通に変換してでてくる文字ではありません。ですから、カタカナ表記にしたものと思われますが、その際にあくまでも推測ですが、上臈を「じょうろう」ではなく「じょうろ」と勘違いしたのではないでしょうか。「上臈」は「じょうろう」とも「じょろう」とも読むことができます。また、人づてに読みを聞いた場合、その人が「じょうろ」と読むと思っていたり、「じょうろ」と聞こえて(聞き違えて)しまったことも考えられます。こちらは、印刷の段階ではなく発掘届けを出す際に「ジョウロ塚」としていた可能性が高いものと考えられます。ですから、埋蔵文化財センターでは、最初の「公団」は単純なミスと思われるので「公田」に直し、後半のジョウロ塚についてはそのまま使用して公田ジョウロ塚遺跡と呼ぶことにしています。
次に上臈塚のことを簡単に説明しておきましょう。桓武天皇の皇子葛原親王(かずらわらしんのう)の妃の照玉姫(てるたまひめ)が旅に出ていた際に病のため公田の地に留まり、その後亡くなりました。この死に嘆き悲しんだ里人らが照玉姫の塚を築き、照玉姫の侍女であった相模の局と大和の局とともに手厚く供養しました。その後、2人の侍女も亡くなり、照玉姫の塚の両脇に塚を築いて葬られました。こうした話を、旅の修行僧の信永という人が公田村を通りかかった際に、女性の声(侍女の霊)に導かれ3つの塚の前で聞かされました。このとき心を打たれた信永は塚のそばに社を建てたそうで、この社が現在の皇女神社(こうじょじんじゃ)の前身とされています。しかし、現在の皇女神社は、上臈塚からは離れた位置にあります。
ちなみに上臈の「臈」という字は臈(僧侶になってからの年数)を積んだ高僧や位の高い僧、年功を積み地位・身分の高い人のことをいいます。また、上流の婦人や身分の高い女官を意味したりするほか、全く反対の遊女や女郎を意味することもあります。
先ほどの『横浜市文化財地図』では(仮称)女郎塚として記載されています。
上臈塚のことについては、本郷郷土史研究会編集の『本郷の民話と伝説』に詳しく書かれていますので、参考にしてください。
墓地の間にわずかに残る上臈塚