新しい質問

Q 中原街道の整備事業に伴う発掘調査は行なっているのでしょうか? 質問です。中原街道の道を広げる工事が続いておりますが、埋蔵文化財としての発掘はしないのでしょうか? 他の場所では道を広げる際に発掘を行っています。少なくとも中原街道は江戸初期にはあったので立派な埋蔵文化財ではないでしょうか? どうも横浜市は古道の調査保存に前向きではないようですがいかがでしょうか? 失礼な文面で申しわけありませんがご返答宜しくお願いします。 (都筑区 荒川さん 会社員 からのご質問)
 

 

A 中原街道の拡幅工事に伴う埋蔵文化財調査では、中星谷(なかほしがや)遺跡という遺跡が2002年に私どもの埋蔵文化財センターによって調査されています。この遺跡からは、弥生時代後期の方形周溝墓1基などが見つかりました。しかし、中原街道に関する遺構は見つかっていません。また、横浜市域では、この遺跡の他には中原街道拡幅工事に伴う発掘調査は行なっていません。
 中原街道のことですが、この道は江戸と相州中原(平塚市の中原)とを結ぶ道路で、後に東海道の脇街道としても利用されていた重要な道です。この街道は、徳川家康が江戸と駿府とを往復する際や鷹狩りに利用したことでも有名な道です。また、中原街道は、東海道に比べ平塚までの距離が短く、カーブや山・坂などが非常に少なく、水害がでる難所もきわめて少ないこともあって盛んに利用されていたようです。さらに、参勤交代の大名行列に遭わないため、渋滞することがなくスムーズに流れることも利用頻度の高い一因であったようです。中原街道は中世にはすでに道としては存在していたものの、その成立については詳らかではありません。先ほどカーブが少ないことを説明しましたが、これは後北条の時代に本格的に整備を行なった際に、狼煙を目印に道を切り開いたためと考えられています。また、中原街道と呼ばれるようになったのは1604年の整備以降のようです。
 次に、埋蔵文化財と古道調査について説明させていただきます。平成10年に出された「埋蔵文化財の保護と発掘調査の円滑化について」という文化庁次長通知のなかで、埋蔵文化財として扱うべき遺跡の範囲として、
1 おおむね中世までに属する遺跡は、原則として対象とすること。
2 近世に属する遺跡については、地域において必要なものを対象とすることができること。
3 近現代の遺跡については地域において特に重要なものを対象とすることができること。
と書かれています。また、埋蔵文化財包蔵地の把握と周知についても、その保護の対象となる周知の埋蔵文化財包蔵地を定め、資料化することが重要事項であることが記載されています。これを受けて横浜市教育委員会では、中世までの埋蔵文化財包蔵地を遺跡地として周知化し、取り扱っています。周知化した埋蔵文化財包蔵地は、『横浜市文化財地図』として刊行され、横浜市内の図書館や埋蔵文化財センターなどで閲覧・コピーが可能です。
 一定以上の開発面積を伴う事業を計画した際には、事業地が周知の遺跡であるかどうかを確認しなければなりません。この時に事業地のなかに周知の遺跡が含まれていた場合、試掘確認調査を行なうなどして埋蔵文化財の有無を確認しています。この際に、埋蔵文化財があることが確認された場合には、事業を実施する前に本発掘調査を行なわなけれななりません。また、周知の遺跡でなかった事業地内でも工事の最中に埋蔵文化財が発見された場合については発掘調査を行ないます。しかし、周知の遺跡とされていない場合発掘調査をする根拠がありませんので、よほどのこと(遺跡地に隣接し、重要な遺構が続いているなど)がない限り調査は行ないません。県道45号線(丸子茅ヶ崎線)拡幅整備事業を例にとった場合、開発事業者である横浜市(道路局)は、事業予定地内のすべての箇所について埋蔵文化財の照会を横浜市教育委員会に行なっています。その照会の結果、発掘調査が必要な箇所について指示があり、その結果を受けて中星谷遺跡の発掘調査を行なったという経緯になります。
 街道などの道路遺構の難しいところは、遺構の規模が大きいうえに、ほとんどの場所が、そのまま現在の幹線道路になっている点があげられます。江戸期から明治・大正・昭和と間断なく、小〜大規模までの改良工事がなされ、その大半はすでに残っていないというのが現状です。また、集落跡などでは土器等の出土遺物が出てくるために、工事中であっても容易に遺構の存在を確認することができますが、道路遺構には出土遺物がほとんど伴わないため、もしかろうじて遺構が残っていたとしても気づかないで工事が進められてしまうというのが実情です。
 古道調査については、当センターでは、泉区内の環状4号線拡幅に伴う発掘調査で中世鎌倉街道の上道(かみつみち)を調査したことがあります。この遺跡は中ノ宮北遺跡といいますが、調査以前には埋蔵文化財包蔵地として周知化されており、集落等の遺跡があるものと思われていました。しかし調査を行なったところ、現存していた幹線道路に併行(走)して道幅10mを超す道路状遺構が検出され、鎌倉街道の上道であることが判明しました。この遺跡の場合はたまたま現在の道路がわずかにずれていたことや遺構の遺存状態が良かったためにに見つかった非常に稀なケースといえます。

               中星谷遺跡の写真(右側が方形周溝墓)

     
        丸子茅ヶ崎線と中星谷遺跡の位置(都筑区No.277)
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