Q 遺跡から出土するガラス玉のことを教えてください
 
先日、博物館の展示品のなかの古墳時代のガラス小玉を見て、あんなに小さくてきれいなガラス玉を古代人たちが、どうやって作ったのか非常に興味を覚えました。また、どのようにして穴をあけたのか教えてください。一緒に見学にきていた友達ともいろいろ話してみたのですが、どうしても分かりません。(緑区 チェ・ジウさん 主婦からの質問)

A 日本にはじめてガラスがきたのは、弥生時代のことで、大陸の漢(かん=今の中国)から伝わったからものと考えられています。九州地方の弥生時代の遺跡からは、土器などの遺物とともにガラスが出土していることから裏付けられています。これらのガラスは、国内で原料から生産していた訳ではなく、製品や資材として作られたものが国内に持ち込まれ、加工・使用(流通)していたものと考えられています。ガラス加工技術については、一部の遺跡から勾玉の鋳型(いがた)なども見つかっているため、すでにこの時代には導入されていたものと考えられます。
 古墳時代に入って、それまでは緑や青くらいしかなかった色調も、ガラスの着色技術が進歩して黄色や褐色、赤褐色や紺色などの玉も作られるようになりました。このように、ガラスづくりの進歩に伴って古墳時代のいつ頃からか、原材料からの生産も始まったものと考えられています。また、奈良時代になると玉以外にも、朝廷(ちょうてい)の保護のもとで仏教関連のガラス製品なども作られるようになりました。平安時代からは徐々に衰退(すいたい)し、室町時代の末頃には国産のガラス製造は一時途絶えてしまいました。その後、しばらく製造が途絶えていた日本のガラスづくりは、16世紀後半から17世紀前半にかけて、中国人や南蛮人(なんばんじん)、紅毛人(こうもうじん)たちによって長崎の地に上陸し、大阪、京都、江戸などに伝わっていき、再びガラスづくりが再開したものと考えられています。
 さて、ご質問のガラス小玉の作り方ですが、大きく3つの製作方法に分けられるものと思われます。まずは、鋳型を用いた方法です。鋳型は粘土板や板状の砂岩に、径3〜4mmの半球状の窪みを多数配置し、窪みの中央には径1mmほどの細かな穴を穿っています。この細かな穴に針金のようなものを立て、周囲の窪みに溶かしたガラスを流し込んだり、ガラスの破片をおいた後に鋳型ごと熱して鋳型に溶解(ようかい)したガラスを流し込む方法をとっていたと考えられています。溶解したガラスが固まった後に、先ほどの針金状のものを抜き取ることで、糸を通す穴ができあがります。次は巻き玉と呼ばれる方法です。こちらは、程よく溶解したガラスを棒状の金属を回転させながら巻き取るように形作る方法です。トンボ玉などやや大きめな玉を作る場合に使われていたようです。今でも有名なベネチアンビーズなどはこの方法を用いて作っています。最後は、細いガラス管を作っておいてから輪切りにしていく方法です。巻き玉の方法で作った管玉を冷さない状態で引き伸して細長い管とします。完成した管を細かく輪切りにした後に、熱を加えて断面の角をとっていく方法です。この方法で作った玉の両端はきれいな平面になっていないのが特徴です。
 また、ガラス玉の色調については、ガラス原料を溶解する際に色を付ける成分を一緒に溶かし込むことで、着色を行なっています。銅を入れると酸化(さんか)状態では緑色に、還元(かんげん)状態では赤褐色に、アルカリ石灰ガラスと組み合わせると縹色(はなだいろ=透き通った青色)になり、鉄や鉄分の多い赤土を加えると黄色や褐色などのいろになります。また、コバルトを入れると紺色(コバルトブルー)になります。現代人の私たちでも普通は知らない化学変化を自由自在に使っていたなんて、古代人はたいした人たちだったんですね。



市ヶ尾第二地区18街区(大場第二地区21街区)横穴墓群出土の玉類
中央のブルーのものがガラス小玉

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