Q 岡津城跡のことをお尋ねします
 
現在、泉区岡津町の 地区活動の一つとして、岡津小学校、岡津中学校、三島神社、岡津公園、旧日立団地一帯の丘にあった城跡(岡津城)について調べ、残されている遺構を保存し、伝えていこうと考えています。しかし、中学校建設や小学校周辺の開発整備、中学校と岡津高校の間の宅地開発等によって、中学校裏に空堀の一部、その他土塁、郭群の一部が残っているのみです。中学校建設や宅地開発などのおりには、事前に発掘調査を行なっていたと聞いています。資料などがありましたら教えてください。お願い致します。(泉区 岡津城主さん 会社員からのご質問)

A 岡津城跡は、『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』によると室町時代から戦国時代の城跡で、城地は大山道と並行して流れている阿久和川の北側、南北に長い丘陵上に位置し、ひな壇状に削られた平坦面を造り出して土塁で区切り、東西の谷戸(やと)を堀の役目に使用していたと記載されています。また、この辺りは、東海道の戸塚宿のはずれの不動坂から大山道に2km進み小田原道と交差する付近にあり、交通の要衝(ようしょう=大切な場所)にあったとされています。さらに、『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』と土地の伝承によると、後の時代(江戸時代)にこの城跡内と考えられる場所に陣屋(じんや)があったとされています。
 この岡津城跡があったと考えられる場所では、過去に1回の発掘調査が行なわれており、中村宮ノ谷(なかむらみやのたに)遺跡として知られています。この中村宮ノ谷遺跡は、日本城郭大系に記載されている本丸跡に推察されている部分と、その東西に食い違いに入り込んでいる空堀(からぼり)と考えられる部分、さらに本丸の西側を下った斜面地の郭(くるわ)状部分の調査を行なっています。これらの場所に、トレンチと呼ばれる試掘溝を配置して発掘調査を行なったところ、縄文時代中期と平安時代の竪穴住居跡、中世の溝状遺構などが見つかりました。しかし、日本城郭大系の記述に合致するような遺構は見つかりませんでした。ちなみに、発見された中世の溝状遺構は、中世城郭に伴う空堀とは異なった形状を呈するものでした。また、本丸と称されている場所についても、見た目よりも実際には狭い頂部であったことが分かりました。これらのことから、日本城郭大系に記載されている本丸部分について、中世城郭の本丸と推測するには疑問であると結論づけられています。ただし、この本丸部分付近についての見解であって、岡津陣屋の推定地とされている岡津小学校や、土塁状の高まりが残る三島神社、その西側に位置する岡津中学校を含んだごく狭い範囲が城跡であった可能性も残されていると考えています(かなり可能性は低そうですが)。
 城郭研究者は現状の様子と伝承から場所を推測しているようですが、城郭も土に埋もれてしまっては、その場所や形状を特定することは非常に困難です。ましてや伝承というものは、年月と人の数を経ることで、元々の情報に脚色が加えられ、歪曲(わいきょく)されてしまうことが多いものです。岡津城の伝承も長い年月のなかで、不確かな情報になってしまったのかも知れません。
 最後に発掘調査報告書名を記載しておきますので参考にしてください。この報告書は、民間調査機関がまとめたものですので、市内の図書館に置いてあるかどうかは分かりません。お近くの図書館にお問い合わせください。また、埋蔵文化財センターにきていただければ、ご覧になることができます。

『横浜市泉区 中村宮ノ谷遺跡発掘調査報告書』1992 中村宮ノ谷遺跡発掘調査団

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