Q 弥生時代の竪穴住居跡の床はどうなっていたのですか?
都筑区の大塚遺跡を見学して、大変に興味を持ちました。
 弥生時代の竪穴式住居を再現してありましたが、地面を掘ってそこに生活していたというのが不思議でなりません。 キャンプなどすると、地面というのは冷えてかなり居心地悪いです。掘り下げ たりしたら、雨の水が入らないでしょうか? 高床式穀物倉庫が作れるのに、住まいは床を張らなかったのでしょうか?
(鶴見区 岡崎さん 50代 からのご質問)
A 発掘調査で発見された竪穴住居跡からは、よほど遺存するための条件が整っていないかぎり、長い年月によって屋根材や柱材などの有機物は分解され、そのままの状態で発見されることはありません。ですから、竪穴住居跡の中からは、土器や石器などの分解・変化しにくい遺物が数多く発見されるのに対して、鉄器・木器などの出土件数はさほど多くはありません。
 大塚遺跡の復元住居は、他の遺跡から見つかった数少ない検出例などを参考にして復元しています。しかしながら、細かな部分までは完全には復元していませんので、疑問に思われてしまうのも当然かもしれません。
 さて、竪穴式住居の構造のことですが、この竪穴式と呼ばれる半地下式の構造は、縄文時代から平安時代までの長い間、住居の構造としては最も一般的に使用されています。高床式倉庫などの掘立柱建物が建物の周囲をすべて木材などの部材で造らなければならないのに対して、半地下式にすることによって、壁にあたる部分の部材が少なくすみます。また、同時に直接壁が外気に接していないため、外気温の影響を受けにくくなっています。このため、竪穴住居の中の温度や湿度は年間を通じても大きく変わりません。夏は涼しく、冬は暖かい快適な居住空間になっていたものと考えられます。しかし、そうはいっても、日本はもともと湿度が高い気候なので、湿度に弱いものや大切なものは、湿度からさけるために床面を地面より離して高床式の建物に保存していたものと考えられます。もちろん害獣被害対策についても地続きよりは適しています。余談で、私はあまりよくは知らないのですが、雪山でのビバーク(不時設営)する時にも雪洞(せつどう)といって風の影響を少なし、熱を逃がしにくくするために半地下にするみたいです。
 床面には、アンペラと呼ばれる草やワラなどを平たく編んだむしろ状の敷物や動物の毛皮などが敷かれていたものと考えられます。横浜の遺跡では確認されていませんが、実際に編み物の痕跡が床面に残っていた例もあるようです。これらの敷物と炉(ろ)と呼ばれる囲炉裏(いろり)による暖(だん)とを合わせることで、寒い冬期も過ごせたのではないでしょうか。ちょっと違いますが、雪で造ったかまくらの中が意外に寒く感じないのを想像するとよいかと思います。
 次に、竪穴住居内に雨水が浸入しないかという点ですが、当時の竪穴住居の壁の部分には、壁が崩れてこないように板材などを使用していたものと考えられています。この部分と斜めにふいている屋根との間には棚状のスペースがあったものと考えられます。このスペースのおかげで、よほどの大雨が降らない限り、いきなり内部まで雨水が侵入することはないと考えられます。また、竪穴住居跡を調査する時には、生活面(実際に昔の人たちが生活していた面)より下まで掘り下げて調査(確認)することがほとんどです。このため、本来生活を行なっていた高さの地面に、何らかの排水(除水)施設が存在していた可能性も考えられます。さらに、東北地方などでは草ぶき(かやぶき)の上にさらに土を乗せた竪穴住居跡が確認されており、関東地方でも同じような痕跡が見つかった例もあります。もし、そのような造作が施されていたならば、より一層雨水の侵入を防ぐことも可能となります。
 このように昔の竪穴住居には、もはやモノ余りの現代人からは想像できない知恵と工夫が施されています。岡崎さんのように太古の人びとの技術やひらめきなどを考えながら、博物館や遺跡公園を訪れるのも違った楽しみかと思います。
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